野太刀自顕流剣術

 代表

森山 清隆

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鹿児島県鹿児島市西田2-13-25

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■ 野太刀自顕流剣術 ホームページ

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  森山 清隆

由来

 当流儀の名称は野太刀自顕流である。起こりは野太刀(陣太刀)の業、すなわち野太刀流であった。冷泉天皇の安和元年(九六八)、薩摩の総追捕使を命ぜられた伴兼行は野太刀の技に優れ、その曾孫の兼貞が大隅国肝付郡の弁済使となり、肝付氏を名乗った。やがてその子孫は大隅の地を治め、さらに肝付氏の分家が薬丸姓を名乗ったが、肝付本家も分家の薬丸氏もこの野太刀流を継承した。
 その後、肝付氏は島津氏との戦いに敗れ、当時の肝付氏の家老であった薬丸弾正は戦死、永禄七年(一五六四)、その子・薬丸壱岐守は許されて島津氏の家臣となった。野太刀自顕流の中興の祖である壱岐守は、二度にわたる朝鮮出兵・庄内合戦・関ヶ原の合戦に殊勲を立てた。
 以後、この薬丸氏に野太刀流が継承され、江戸中期、薩摩藩において剣聖と称された第九代薬丸兼武は、独自の理念と技法を確立し、多くの門弟を抱え、流儀の名称を野太刀自顕流と名乗った。
 この当時、薩摩の御留流は示現流であり、示現流の名称の由来に関わる天真正自顕流の自顕の二字を加え野太刀自顕流としたのである。
 それでも藩の掟は厳しく、この名乗りは忌諱に触れ、兼武は藩庁から屋久島遠島を言い渡され、天保六年七月、この地で没したが、嫡子兼義が兼武の業を継いだ。
 幕末にかけて門弟の中から優れた人物が輩出した。桜田門外の変の有村治左衛門、寺田屋事件の鎮撫使江夏仲左衛門、生麦事件の奈良原喜左衛門等々、そして戊辰戦争では参謀・軍監として多くの勤皇の志士が現れた。また、西郷隆盛の側近であった「人斬り半次郎」こと桐野利秋も青年のころ、一時、江夏仲左衛門のもとで野太刀自顕流の修練を行っていた。
 明治維新は、野太刀自顕流が叩き上げたといわれる所以である。
 近年では、日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を打ち破った帝国海軍の東郷平八郎元帥も、当流門弟であった。

系譜

代々、薬丸家に伝承した野太刀自顕流も、後継者として期待された第十二代兼吉の長子兼教が沖縄戦で戦死し、薬丸本家が断絶したこと。また戦後の武道人口の減少に対処すべく再度の復興を期して、昭和三十二年に野太刀自顕流薬丸本家最後の当主兼吉の了解のもと、高弟奥田真夫とその弟子伊藤政夫が中心となって野太刀自顕流研修会が発足した。

流儀の特徴

 相手を一撃で倒し、二の太刀を必要としない。腕と体で打ち下ろし天地を一刀のもとに両断する。避けたら避けた方に、防いだら刀もろとも一刀のもとに断ち切る。

伝承されている伝書

 一 薬丸家文書

活動状況

●稽古道場 
 ▽共研舎道場 鹿児島市上之園町20-17
 ▽青雲舎道場 鹿児島県姶良郡加治木町日木山311・精矛神社内
 ▽鶴尾学舎道場 鹿児島市新照院町34
 ▽自彊学舎道場 鹿児島市薬師町2-34-24
●事務局 秋窪 大
 電話(080)5244-8023
 門弟数 大人25名、子供20名、計45名。免許皆伝 2名。稽古日時 毎週土曜日夕刻
長木刀の技長木刀の技 野外での長木刀野外での長木刀